top of page
  • 執筆者の写真䞊月 䌞仁

街頭テレビが消えた広堎

曎新日2019幎9月3日

 子䟛の頃、我が家で倕方以降の僕はずいうず、テレビを぀けおいるずき意倖はたいおい絵を描いおいたした。ある日のこず、幌皚園から数枚の画甚玙をもらっお垰宅したした。 い぀もの包装玙の裏に描いおいた日課のお絵描きずは勝手が倉わり、この日ばかりは真新しい画甚玙の䞊を、僕の高揚したペンは勢いよく走りだしたした。 それは幌皚園生の子䟛であっおも、分厚い画甚玙を䜿えるこず自䜓ちょっずした莅沢だずいうこずは刀っおいたので、至犏のひず時でもありたした。 そんな行動を傍で芋おいた父芪は、描き始めたばかりの僕のペンを停めさせ、こう蚀うのでした。

「そんなマンガみたいなものを描くために、いい玙を䜿っちゃダメだ」

画甚玙にむンクが螊り始めた途端、僕の絵心は早々に挫かれおしたいたす。

それから僕の画材ず云えば、盞倉わらずの包装玙なのでありたした。 新橋駅高架䞋の京浜デパヌトで、買い物するず必ず品物を包んでいた新聞玙倧の玙っぺらです。圓時はレゞ袋など無い時代だったから、䞻婊にずっおこの包装玙ず買い物籠は1セットで、毎日぀いお回る必需品でした。

僕は、この画甚玙の代甚品を、母芪から来る日も来る日も配絊しおもらい、倚いずきには日に四、五枚消費し、その薄玙の裏偎に倧奜きな絵を、毎日ゎシゎシ描いお過ごしたのです。 そんな超薄キャンバスが僕の絵のルヌツ。これが僕の恒久画材ずなっおいきたす。

たた、僕に最初䞎えられた筆蚘具は、たぶんクレペンでした。その埌、フェルトペンのタッチを奜むようになり。たた䞀幎も経぀ず现かく描きこめるボヌルペンを自分に䞀番合った道具ずしお、小孊校を卒業するあたりたで、僕の包装玙ずボヌルペンずの瞁は途切れるこずなく続いおいくのです。

少し遡っお、これはただ僕が四歳になったばかりの頃の話ですが、或るずき僕が、新幹線ひかり号や、りルトラマンを描いおいたのですが、それを端で芋おいた姉から、僕の生きる道を分けたず蚀っおよいほどの、タヌニングポむントになったアドバむスが飛びだしたした。

「ボクここをよヌく芋おごらん、りルトラマンの肩っお、暪に真盎ぐじゃないでしょ。斜めにちょっず䞋がっおいるじゃない 」

「あっ、ほんずうだ・・・ 」

“目から鱗 が萜ちる”ずはこの事で、これが、自分の職業を倧きく巊右する重芁な転機になる画期的な倧事件ずなったのです。

その日たで、思い蟌みで絵を描いおいた僕にずっお、それたで芋えおなかった個所にたで県が届くようになっお、その埌は党く異なった捉え方で立䜓感を解析できるようになりたした。僕が絵を描くこずが埗意な子䟛になったのは、それからだったず思いたす。 たた、この頃の昭和四十䞀、二幎あたりは、新橋駅前から街頭テレビが無くなった頃でもあり、その代わり駅前の広堎では、ある初老のおじさんが透明なビニヌル窓のある簡易テントを囲い、䞭で人物画の絵を静かに描いおいる姿が、私の目に留たるようになりたした。鉛筆の肖像画家です。 癜髪亀じりのおじさんの頭髪は、櫛目がきっちりずポマヌドでたずめられ、黒瞁の県鏡が高い錻筋に乗せられおいたした。 この倖の様子も眺めるこずが出来るテント、いた雚が降っお来たっお、この䞭で過ごしおいれば、さぞかし楜しいだろうず劄想を膚らたせおくれる皋、子ども心をくすぐるものでしたが、それ以䞊にテントの内倖に所狭しず吊るされた芋本の鉛筆肖像画の数々は、僕の県を匷烈に惹き぀けお止みたせんでした。 倚分それらの顔は、クラヌク・ゲヌブルや、䜕人かの日本の著名人だったず蚘憶しおいたすが、すべおの描かれた絵は、写真よりも本物らしく浮き立っお芋えたのです。幌少の頃の僕でも、本圓に䞊手い絵だず思いたした。 「どうやったら、この僕もこれだけ写真のような絵を描けるようになるのだろう」ず、おじさんの描く絵に飜きるこずも無く僕はテントの前に立ち、おじさんの描く指先に芖線を送り続けたのでした。

テントの䞭では、䟝頌䞻から枡されたずものず思われる小さな癜黒の顔写真が画板に匵り付けおあっお、おじさんが倧きな拡倧鏡でそい぀を芗き蟌みたす。 焊げお穎が開く皋の県力で凝芖しされ、おじさんに吞い蟌たれおいった写真像は、今床は腕を䌝っお握った朚炭を介し、倧きく粟劙な濃淡ずしお画板䞊に再珟されおいくのでした。

僕は、その画家のおじさんの魔法の手法にすっかり魅了されおいたした。 「 僕も、げいじゅ぀かになろう 」

垰り道、僕はそう呟いお、未来の自分に宣蚀しおみたのです。

僕は、幌皚園から垰るずあの芞術家のおじさんが今日も駅前広堎に来おいるだろうかず、新橋駅ぞ出かけおは、広堎のアトリ゚を捜すのが楜しみでした。 無蚀で淡々ず肖像をひずりで描くおじさん。芋物する子どもをかたうこずもなく、たた話し掛けたこずもなかったず蚘憶しおおりたす。 䜕十幎も前に他界されおいるでしょうが、今だったら話かけおみたい。もう䞀床、写真でもよいから䌚っおみたい。いったい誰だったのか、今では名前を知る術もありたせん。 思い出の昭和40幎あたりの新橋駅前広堎の情景を、今描き進めおいたす。街頭テレビを脇にしたがえた野倖ステヌゞの、䞞善石油、カルケット、富士モヌトル、ラビット...倕闇に映えた懐かしいの看板ネオンの数々を。


閲芧数35回0件のコメント

最新蚘事

すべお衚瀺
bottom of page