子供の頃、我が家で夕方以降の僕はというと、テレビをつけているとき意外はたいてい絵を描いていました。ある日のこと、幼稚園から数枚の画用紙をもらって帰宅しました。 いつもの包装紙の裏に描いていた日課のお絵描きとは勝手が変わり、この日ばかりは真新しい画用紙の上を、僕の高揚したペンは勢いよく走りだしました。 それは幼稚園生の子供であっても、分厚い画用紙を使えること自体ちょっとした贅沢だということは判っていたので、至福のひと時でもありました。 そんな行動を傍で見ていた父親は、描き始めたばかりの僕のペンを停めさせ、こう言うのでした。
「そんなマンガみたいなものを描くために、いい紙を使っちゃダメだ」
画用紙にインクが踊り始めた途端、僕の絵心は早々に挫かれてしまいます。
それから僕の画材と云えば、相変わらずの包装紙なのでありました。 新橋駅高架下の京浜デパートで、買い物すると必ず品物を包んでいた新聞紙大の紙っぺらです。当時はレジ袋など無い時代だったから、主婦にとってこの包装紙と買い物籠は1セットで、毎日ついて回る必需品でした。
僕は、この画用紙の代用品を、母親から来る日も来る日も配給してもらい、多いときには日に四、五枚消費し、その薄紙の裏側に大好きな絵を、毎日ゴシゴシ描いて過ごしたのです。 そんな超薄キャンバスが僕の絵のルーツ。これが僕の恒久画材となっていきます。
また、僕に最初与えられた筆記具は、たぶんクレヨンでした。その後、フェルトペンのタッチを好むようになり。また一年も経つと細かく描きこめるボールペンを自分に一番合った道具として、小学校を卒業するあたりまで、僕の包装紙とボールペンとの縁は途切れることなく続いていくのです。
少し遡って、これはまだ僕が四歳になったばかりの頃の話ですが、或るとき僕が、新幹線ひかり号や、ウルトラマンを描いていたのですが、それを端で見ていた姉から、僕の生きる道を分けたと言ってよいほどの、ターニングポイントになったアドバイスが飛びだしました。
「ボク!ここをよーく見てごらん、ウルトラマンの肩って、横に真直ぐじゃないでしょ。斜めにちょっと下がっているじゃない 」
「あっ、ほんとうだ・・・ 」
“目から鱗 が落ちる”とはこの事で、これが、自分の職業を大きく左右する重要な転機になる画期的な大事件となったのです。
その日まで、思い込みで絵を描いていた僕にとって、それまで見えてなかった個所にまで眼が届くようになって、その後は全く異なった捉え方で立体感を解析できるようになりました。僕が絵を描くことが得意な子供になったのは、それからだったと思います。 また、この頃の昭和四十一、二年あたりは、新橋駅前から街頭テレビが無くなった頃でもあり、その代わり駅前の広場では、ある初老のおじさんが透明なビニール窓のある簡易テントを囲い、中で人物画の絵を静かに描いている姿が、私の目に留まるようになりました。鉛筆の肖像画家です。 白髪交じりのおじさんの頭髪は、櫛目がきっちりとポマードでまとめられ、黒縁の眼鏡が高い鼻筋に乗せられていました。 この外の様子も眺めることが出来るテント、いま雨が降って来たって、この中で過ごしていれば、さぞかし楽しいだろうと妄想を膨らませてくれる程、子ども心をくすぐるものでしたが、それ以上にテントの内外に所狭しと吊るされた見本の鉛筆肖像画の数々は、僕の眼を強烈に惹きつけて止みませんでした。 多分それらの顔は、クラーク・ゲーブルや、何人かの日本の著名人だったと記憶していますが、すべての描かれた絵は、写真よりも本物らしく浮き立って見えたのです。幼少の頃の僕でも、本当に上手い絵だと思いました。 「どうやったら、この僕もこれだけ写真のような絵を描けるようになるのだろう」と、おじさんの描く絵に飽きることも無く僕はテントの前に立ち、おじさんの描く指先に視線を送り続けたのでした。
テントの中では、依頼主から渡されたとものと思われる小さな白黒の顔写真が画板に張り付けてあって、おじさんが大きな拡大鏡でそいつを覗き込みます。 焦げて穴が開く程の眼力で凝視しされ、おじさんに吸い込まれていった写真像は、今度は腕を伝って握った木炭を介し、大きく精妙な濃淡として画板上に再現されていくのでした。
僕は、その画家のおじさんの魔法の手法にすっかり魅了されていました。 「 僕も、げいじゅつかになろう 」
帰り道、僕はそう呟いて、未来の自分に宣言してみたのです。
僕は、幼稚園から帰るとあの芸術家のおじさんが今日も駅前広場に来ているだろうかと、新橋駅へ出かけては、広場のアトリエを捜すのが楽しみでした。
無言で淡々と肖像をひとりで描くおじさん。見物する子どもをかまうこともなく、また話し掛けたこともなかったと記憶しております。
何十年も前に他界されているでしょうが、今だったら話かけてみたい。もう一度、写真でもよいから会ってみたい。いったい誰だったのか、今では名前を知る術もありません。
思い出の昭和40年あたりの新橋駅前広場の情景を、今描き進めています。街頭テレビを脇にしたがえた野外ステージの、丸善石油、カルケット、富士モートル、ラビット...夕闇に映えた懐かしいの看板ネオンの数々を。
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